硫黄島からの帰還兵 戻ってみると町葬が済み墓ができていた・・太平洋戦争最後の証言 第二部 陸軍玉砕編

硫黄島からの帰還兵 戻ってみると町葬が済み墓ができていた
NEWSポストセブン2011.12.30 07:00
http://www.news-postseven.com/archives/20111230_77366.html


ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超す元兵士に取材した戦争ノンフィクションの決定版三部作『太平洋戦争最後の証言 第二部 陸軍玉砕編』(12月発売)。硫黄島戦にまつわる帰還兵の声を基に、門田氏がレポートする。(文中敬称略)

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小笠原諸島の南端にある硫黄島に、日本軍は陸海あわせて二万一千人の守備隊を配し、米軍は、六万一千人という大兵力を投じた。

「各自敵十人ヲ殪サザレバ死ストモ死セズ」

すべての将兵に伝えられた硫黄島の総指揮官、小笠原兵団長の栗林忠道中将のこの言葉に代表される徹底的な抵抗戦術と兵たちの気迫によって硫黄島では凄まじい攻防が繰り広げられた。

その硫黄島に唯一、聯隊旗を奉じて乗り込んだのが、鹿児島に本拠を置く歩兵第百四十五聯隊である。

硫黄島で最も激しい戦闘を繰り広げた百四十五聯隊の数少ない生還者が、向江松雄(九四)である。

向江が一年八か月に及ぶ捕虜生活を経て、三年二か月ぶりに故郷・鹿児島の地を踏んだのは、昭和二十二年一月六日のことだった。

すでに向江の葬儀は終わっていた。今年八十七歳を迎えた向江の妻・初枝はその時のことをこう語る。

「何か月か前に地元の出征兵士たちの町葬があって、私も参列し、白木の箱ば抱いて、歩いて帰って来ました。箱を開けてみましたら、木の位牌だけが入ってました。位牌には名前が書いてありました。それから何か月か経って、そろそろお墓を建てんな、て話して、お墓もやっとできたところでした。そうしたら、主人が帰ってきたんです」

生きて帰ってきた夫の姿を見た時、初江は身体が震えたことを覚えている。

「もう、ほんと、ありがたいて、がたがた震えました。涙も出ませんでした。本当だろうかと思うてね……」

向江松雄はこう語る。

「いま振り返ると、なんであんなに硫黄島で頑張れたかなあと思うよ。母ちゃん(初江)のことを思うとなあ。年寄りも抱えて大変じゃろうと。どうにか生きて帰らんと、っち。みんな死んでったが、その思いはずっとあったねえ。帰ってから、わしは戦友の墓参りに廻ったよ。生きて帰ったわしを陰で“国賊や”と言う人もいたそうです。

わしは、戦争のことは、ほとんど語らんかった。聞かれて話すようになったのは、ほんの最近のことよ。日本がこんな経済でも大国になったのは、硫黄島であんなに沢山の戦死した人がおったお陰やぞっど。二度とこげな戦争したらいかんどって、いまわしは話しとる」

向江松雄、初江夫妻はその後、四人の子どもに恵まれ、それぞれ九十四歳、八十七歳となった今も、出征していった同じ家に住んでいる。激動の戦後を、農業と林業で生計を立てて静かに暮らしてきたのである。

鹿児島歩兵第百四十五聯隊は、総員二千七百二十七人で硫黄島に上陸し、生還者はわずか百六十二人。生き残ったのは、「二十人に一人」だったことになる。

硫黄島での日本軍の死傷者は二万九百人、米軍は二万八千六百人に及び、太平洋戦争の島嶼戦で死傷者数が唯一、アメリカが日本を上まわった戦いとなった。

※週刊ポスト2012年1月1・6日号


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