「三流政治家」をのさばらせた「自民党」の大罪 ケチで愚かで偉そうな「森喜朗」元総理の利権を潰せ

「三流政治家」をのさばらせた「自民党」の大罪 ケチで愚かで偉そうな「森喜朗」元総理の利権を潰せ
http://www.gruri.jp/article/2015/08140800/

 東京五輪開催まであと5年。その間、この御仁の偉そうな振る舞いと、愚かな放言につき合わなければならないとは、暗澹とさせられるではないか。今や「日本最大の老害」と言っても過言ではない森喜朗元総理(78)。その権力の源泉、そして、利権の構図とは――。

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誰がその太い首に鈴をつけるのか

 総理大臣時代、森喜朗氏は「日本は神の国」と発言して批判の集中砲火を浴びた経験を持つ。その“神”は時に驚くべき偶然を用意することがある――。

 6月中旬、東京・赤坂。偶然にも、新国立競技場問題の渦中にある2人が同じ料理屋でそれぞれ会合に臨んでいた。1人は、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森氏。もう1人は、下村博文文部科学大臣だ。無論、双方とも個室での酒宴だから、何事もなければ互いの存在に気付くことはないはずだった。

 下村氏の会合に出席していたのは、彼が所属する自民党の派閥「清和会」の若手議員15名ほど。目を疑うような光景が繰り広げられたのは、会合もそろそろ中締めという頃合いである。元々、個室のドアは少し開いていたのだが、そこから突如として、森氏がその巨体を滑り込ませてきたのだ。

「森さんはトイレに行く途中だったのですが、ドアの隙間から見て、中に下村さんがいることに気付いてしまったのです……」

 と、件の料理屋の関係者。

「そのまま下村さんの部屋に入っていこうとするので、店の者が“やめて下さい”と制止しました。しかし森さんは“いや、ちょっと、みんな知り合いだから”などといって結局、部屋に入ってしまったのです」

 思わぬ闖入(ちんにゅう)者の登場に下村氏を含む全員が凍りついたことは言うまでもないが、

「さらに、森さんは“東京都に資金を出してもらおうなんていつまでも考えてるんじゃない!”などと、下村さんに対する批判をワーッとぶちまけた。で、3分くらい喋り続け、嵐のように部屋を出て行った。下村さんたちは唖然として一言も発しませんでした」(同)

 政治部デスクが言う。

「6月中旬といえば、新国立競技場の建設費が当初の倍近くに膨れ上がることが指摘されて世間の批判が高まり、計画を見直すべきだという声が上がり始めていた頃です。しかし、見直しとなれば森さんがこだわる2019年のラグビーW杯には間に合わない。森さんは、混乱の原因は下村さんにあるとして、一方的に不満を募らせていました」

 だからといって、料理屋で下村氏の姿を認めるや、いきなり部屋に乗り込んでいって激烈に批判するとは、元総理、いや大人のすることではあるまい。

 結局、最後までザハ・ハディド氏の案にこだわり続け、安倍総理の説得を受けてようやく折れた森氏。

「たった2500億円も出せなかったのか」

「(ザハ案は)生ガキの垂れたのみたいで嫌だった」

 周囲を振り回したあげく、そんな憎まれ口まで叩いて国民をうんざりさせたのだ。

■「森金脈」の一端

 森氏が五輪組織委員会の会長に就任したのは昨年1月。翌月には、日本スポーツ振興センター(JSC)理事長の河野一郎氏を組織委員会の副会長に選んでいる。河野氏は森氏の“子飼い”とされる人物である。

「組織委の会長に就任する前、森さんは“(会長は)財界から出すのが一番いい”などと周囲に話していましたが、本心は全く違った。“自分が会長をやる”と密かに官邸に働きかけていたのです」(官邸関係者)

 そうして掴み取った組織委会長の仕事について、森氏はこう話している。

〈僕も無報酬だ。わずかばかりの議員年金は家内に渡してね。日当は手をつけず組織委のメンバー全員との盆・暮れの打ち上げ代にためてる。いろいろと気を使ってるんだよ〉(7月17日付産経新聞)

 全ては滅私奉公――というわけである。国民に望まれない「ご奉公」ほど傍迷惑なものはないが、オリンピック以外のところに目を転じても、森氏には、第一線から退くつもりが全くないことが分かる。

 森氏が政界引退を表明したのは12年7月のことだが、その後も彼は自身の政治資金管理団体「春風会」を存続させている。しかも、引退後も活発な資金集めをしているようで、13年分の収支報告書を見ると、年間の収入額は約1億円。その内訳は、7月に催された〈「私の履歴書」出版記念会〉で約4500万円、12月の〈春風会忘年例会〉で約4900万円、などとなっている。

 春風会忘年例会に出席したことがある後援者の話。

「例年、東京都内のホテルで行われ、出席者は700人から800人。会費の額は決まっておらず、1万円を振り込む人もいるし、20万円という人もいる」

 政治資金の問題に詳しい神戸学院大学の上脇博之教授は、

「政界を引退した人が資金管理団体を存続させていること自体が奇妙ですが、引退後もその団体が年間1億円もの資金を集めているとなると、これは異様というほかありません」

 と語るが、この「春風会」を巡っては他にも奇妙な点がある。

 まず1点目。それは、春風会が発行していた機関誌「春風」についてである。「春風」には毎号、数多くの企業広告が入っており、総理時代、「森金脈」の一端を示すものとして雑誌などで批判された。実際、数年分の「春風」を確認したところ、並み居る有名企業の広告が入っていることが分かったが、気になるのはゼネコン2社の広告だ。大成建設は85年以降、少なくとも6回、竹中工務店は87年以降、同じく6回の広告を出している。この2社はゼロベースで見直しとなる前の新国立競技場計画において、技術審査を経て建設予定業者に決まっていたが、これは偶然だろうか。

 もう1つの奇妙な点は、春風会への資金移動について。12年分の収支報告書を見ると、政界引退表明後の10月から12月にかけて、春風会は〈自由民主党石川県衆議院支部〉から、3回に分けて総計5300万円の寄付を受けていることが分かる。ちなみに、森氏が代表を務めていた〈自民党石川県第二選挙区支部〉が〈自民党石川県衆議院支部〉に名称変更されたのが、1回目の寄付の直前。3回目の寄付が終わった直後に〈自民党石川県衆議院支部〉は解散している。

「森さんは元々、長男の祐喜氏に自らの地盤を継がせようと考えていましたが、その祐喜氏はさんざん問題を起こしたあげく、11年に亡くなってしまった。で、森さんの選挙区の後継者は公募で決まりました。一連の資金移動を見ていると、森さんは縁もゆかりもない後継者に資金を残したくなかったのではないか、という疑念が浮かびます」(永田町関係者)

 愛息に地盤を継がせることは叶わなかったものの、森氏が今も地元・石川県において隠然たる影響力を保持しているのは、以下のような“生臭い話”が伝わってくることからも明らかだ。

「石川県加賀市で新市民病院の建設計画が持ち上がり、11年以降、事業者選定のための書類審査やプレゼンテーションが行われた。その際、森氏の事務所は特定の医療コンサルタント会社を事業者にするよう、当時の寺前秀一・加賀市長側に強く要請したのです」

 そう明かすのは、事情に詳しい石川県政関係者。

「選定の際、関係者の間には“森さんが要請している”という気持ちが働き、参加を表明した業者を3、4社に絞る際にはその医療コンサルタント会社は残った。しかし、最終的には森さんの要請があった会社とは別の会社に決まりました。それを聞いた森さんはかなり激怒したそうです」

 この話には続きがある。事業者が決まった約2年後に行われた加賀市長選挙に、森氏は自身の元秘書の宮元陸氏を擁立したのだ。

「選挙戦に入ると、森さんは“寺前市長は単身赴任で、東京の自宅は大豪邸です”などと演説。実際は寺前さんの自宅は20坪ほどの小さな家なのですが、そうした演説の影響もあって、寺前さんは敗れ、宮元さんが新市長になった」(同)

 この市長選挙で寺前氏を応援した石川県議(自民党)の向出勉氏(78)は、

「森さんは寺前のことだけじゃなく、ワシのこともボロクソに言うとった。ワシは森さんの国政1期目の時から選挙の世話などをやってきたんやけどね」

 と、慨嘆する。

「森さんは、政界を引退してからやたら地元のことに口を出すようになった。自分のイエスマンを増やしたいんだろう。昨年秋、森さんは“県議は70歳を過ぎたら辞めればいい”と発言したが、ワシらのようなベテラン県議が煙たいからそんなことを言うんやろ」

 オリンピックに関してだけではなく、地元・石川にも隙なく目を光らせる森氏。彼はいかにして権力の階段を駆け上がり、そして、未だに権力を握り続けているのか。

■「ノミの心臓」の起源

 森氏は1937年に石川県能美郡根上(ねあがり)町(現・能美市)で生まれている。森家は根上で代々「肝煎(きもんど)」と呼ばれた庄屋の家系で、祖父も父親も根上の村長や町長を長く務めた地元の名士だ。要するに森氏は典型的な「ぼん」だったわけだが、実際、2年前に出版された『私の履歴書 森喜朗回顧録』を読むと、ほとんど苦労というものを経験せずに社会へ出て行ったことが分かる。何しろ、早稲田大学に入学できたのは父親のコネのおかげ。さらに、産経新聞社に入社できたのも、早稲田の雄弁会時代に知り合った政治家のコネがあってこそ、だったのだ。

 そんな森氏が衆院選に出馬、初当選を果たしたのは69年、32歳の時である。自民党の公認が得られない中で当選できたのは、これまたコネを頼って実現した、岸信介元総理の応援演説の影響が大きかった。その時に築いた“縁”は岸元総理から娘婿の安倍晋太郎氏へ、そして安倍晋三総理まで、3代に亘って続く。

「森さんはあの巨体なので親分肌と思われがちですが、実は“子分肌”。大物に尽くすことでのし上がってきた。岸信介氏や安倍晋太郎氏だけではなく、福田赳夫元総理にもかわいがられ、77年には福田内閣の官房副長官に就任。83年には第二次中曽根内閣に文部大臣として初入閣した」

 とは、元清和会担当記者。

「彼は88年、リクルートの未公開株を譲渡されていたことを新聞に報じられ、しばらく“冷や飯”の時期が続きますが、91年の安倍晋太郎氏の死去が転機になる。清和会の後継を巡って三塚博氏と加藤六月氏が“三六戦争”を繰り広げ、最終的には森さんの支持を受けた三塚氏が清和会会長に就いたのです」

 森氏は91年10月に自民党政調会長に就任するが、あの有名な“呼称”が使われだしたのもその頃からだ。

「ノミの心臓」――。

「ハマコーさん(浜田幸一氏)が広報委員長を務めていた頃、役員会で毎回、冒頭の10分ほど、ハマコーさんがひたすら森さんを怒鳴りつけるのです。内容は森さんと企業の癒着についてでした」

 そう振り返るのは、自民党のベテラン代議士。

「が、森さんは全く反論できず、おどおどするばかりだった。これが“ノミの心臓”と言われた具体的な背景。彼はいじめられっ子だったのです。“サメの脳みそ”と言われたのは総理になる頃だと思います」

■ロビイストに官房機密費

 それでも森氏は幹事長、総務会長と自民党3役を全て経験し、2000年4月、2度目の幹事長時代に当時の小渕恵三総理が脳梗塞で倒れる。それによって急遽、森氏のもとに総理の椅子が転がり込むのだ。

「自民党の重鎮が密室での話し合いで森さんを総理に選んだことへの批判や、就任直後の“神の国発言”で森政権はいきなり逆風にさらされました」

 と、政界関係者が言う。

「焦った森さんは親密な関係にあった銀座のクラブママのルートで北朝鮮政府に近い女性ジャーナリストに接触、“極秘訪朝”の可能性を探ったが、実現しなかった。クラブママはその時にかかった経費などを森さんが払ってくれない、と後々まで嘆いていましたよ」

 宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」が米原潜に衝突されて沈没し、9人が犠牲になったのは01年2月だが、事故が起こった日、森氏はのんびりゴルフに興じていた。当然、世間には批判の声が渦巻き、事故の2カ月余り後、森氏は辞任を表明するに至ったのだが、

「森さんは総理を辞める前、最後にアメリカのブッシュ大統領に会って終わりにしたい、と言い出した。で、急遽、アメリカに森内閣の関係者数人が派遣され、現地のロビイストに官房機密費を払って頼み込んだ。そのかいあって、辞任直前の訪米が実現した」(同)

 結局、約1年で総理の座を追われることになった森氏について、政治評論家の浅川博忠氏は、

「政治家を3つに分けるとすれば、政策と政局の両方に強い人が一流。政策だけに強い人が二流。政局がらみで出世してきた人は三流。この分け方でいくと、森さんは三流の政治家ということになりますね」

 と評するが、そんな三流政治家が未だに権力者然としていられるのは何故か。

「自民党の議員は森さんのことを“小狡(こずる)い”と表現する。重要な節目で当事者に会ったりして目立ち、影響力を持っているかのように見せかけるのがうまいので、そう言われるのでしょう」(政治ジャーナリスト)

 五輪組織委関係者の話。

「組織委の中はもちろん、JSCの有識者会議でも、森さんに文句を言える雰囲気は全くない。それこそが最大の問題であり、新国立競技場の話がこじれた大きな要因です」

 まさしく老害。森氏が居座り続ける限り、5年後の五輪の成功は覚束ない。

週刊新潮 2015年8月13・20日夏季特大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです。

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